あかびら火まつり
あかびらの祭り
昭和47年3月、赤平市は産炭地の沈滞したムードを一掃するためにも、今まで各地区で行なっていた祭り(商工祭り、赤平神社祭り、赤間山祭り)を統一して、市民こぞって参加する祭りにしようとの声が赤平市民の間から高まり、市もこれを受け入れ、市、商工会議所、地区労、農民協議会の代表約20人からなる統一市民祭実行委員会を設置し、統一市民祭りを開くことを決めた。同年7月14・15・16日より「第1回赤平市民祭り」として実施された。
火文字焼きとタイマツリレー
赤平市は石炭産業の最盛期には大小23もの炭鉱があったが、エネルギー革命の中で42年に豊里鉱、44年に茂尻鉱、48年に赤間鉱と相次いで山の灯を消し、離職者とその家族はマチを次々と去って行き、最後に残ったのが住友赤平鉱一山のみ。
『なんとかこの山の灯だけは消さないでほしい』と市内の若者(青年会議所)たちが京都の「大文字焼き」にヒントを得て始めたのが現在の『火文字焼き』である。また、赤平神社より赤平の発展の祈りをこめていただいた神火を平岸・茂尻・住友より、又、共和、幌岡、文京町、赤間より、又、住吉、豊里の3コースから若人たちの手から手へと赤平市内を一巡し一つ一つのタイマツが、ここに赤平再開発の願いをこめて一つの大きな炎として集火した、それを旧赤間炭鉱ズリ山に描いた火文字に点火した。
昭和57年より赤ふんランナーが登場する。
赤平火太鼓保存会
市民の力でおらが町にも太鼓を作ろう!新しい文化財の育成と将来を担う青少年が郷土愛に燃え前進することを目的として「赤平火太鼓」が昭和51年12月に結成される。翌昭和52年「第6回赤平市民祭り」で初披露される。
火神輿
火をテーマした祭りなので火の神輿を作ろう!そんな発想から誕生した「火神輿」は昭和58年に完成する。なんと初披露は2月に開催した第1回冬の祭典である。火まつりデビューは「第12回赤平市民まつり」。
あかびら火まつりの誕生
昭和61年、これまでの見せる祭りから参加する祭りへとイメージチェンジ、近隣からも人を呼べ、更に市民が情熱の「火」を燃やして総出で参加出来るようにしたいということから名称を第15回より「あかびら火まつり」と改めた。この時、誕生したのが「火ょっとこ踊り」である。
火噸節
平成2年の赤平市開基100年の8月に伊藤多喜雄氏が作詞、唄う「火噸節」ができる。翌年、第20回「あかびら火まつり」で赤平音頭に代わって新たに「火噸節」による歌と踊りを一新した市民踊りができる。
会場移転
平成21年には、長年なれ親しんだ赤平小学校のグランドをメイン会場として開催していましたが、赤平小学校が閉校し会場地が民間企業に売買されたことにより、「第38回あかびら火まつり」より会場を赤平コミュニティ広場に、火文字焼きをズリ山の左斜面に移転する。
毎年、進化し続けるあかびら火まつり
【伝統の継承を続けるまつり】
赤平の発展の願いをこめて市内を元気いっぱいに走るタイマツリレー 市内3方向からランナーはお祭り会場を目指して走る。
お祭り広場に集まったタイマツは3つ輪になって会場を回り出す。それが、一つの大きな火となり火文字焼きにつながる
赤平火太鼓保存会のタイマツリレーのランナーを迎える迎え太鼓!
ズリ山に描かれる火文字焼き
初日のフィナーレ!火ょっとこ踊り。ステージ上では曲に合わせて踊り「いいよ!いいよ!」の大合唱!
会場内を練り歩く火神輿 2日間 火神輿の火を灯り続ける。
【たくさんの市民が参加するまつり】
赤平中学校吹奏楽演奏
市民踊り 審査が行われ火まつり大賞が選ばれる!踊子は市内小中学校、市内団体・企業からで約500名の参加者がいる。
特設巨大ビアガーデンではビールと屋台の美味しい料理が楽しめます。
【たくさんの市民の想いで開催されるまつり】
今年の花火大会も皆さまから応援募金を資金に開催します。