炭鉱の歴史〜since1890〜
安政4年、北海道の名付け親松浦武四郎により発見された空知川の露頭は、明治6年榎本武揚、7年ベンジャミン・スミス・ライアン等の調査を経て、明治27年、坂市太郎により鉱区出願された。大正13年住友の経営に移り、1斜坑区域(旧上歌志内礦)を稼行して来たが、昭和13年赤平地域の開発に着手し、同14年一坑、同16年二坑、同19年三抗をそれぞれ斜坑により開坑。さらに同28年一斜坑ⅸ域(旧上歌志内砿)を合併。赤平の炭鉱は長きにわたって、北海道の石炭産業の歴史を刻んできた。平成6年2月25日をもって最後のヤマ、住友赤平炭鉱が閉山55年間の操業を終えた。
《概 況》
当砿は、赤平市及び歌志内市にまたがる1,800haの砿区に埋蔵量4億トンを保有し、合計23層の炭層からなっている。山丈累計49.60m、炭丈累計37.20m、最大層厚9.5m、平均層厚2.15mである。品質極めて優秀で原料炭を主として産出。当砿の炭層は一部を除いて殆どが急傾斜層であるため採炭の機械化に大きな制約を受けてきた。しかしながら充填硑のクラッシャー方式の採用、急傾斜用採炭機械の導入、採炭能率の向上等により、切羽出炭の増大を計り、緩傾斜を凌ぐ成果を挙げ、逐次能率を向上させて来たが、立坑の完成によりさらに採炭量を増やすことになった。
《立坑開さく意義》
当砿は、従来斜坑方式により-350水平上部を主な採掘区域として年産100万トンの出炭を行ってきた。しかしながら熾烈なエネルギー革命と、切羽の深部移行に対処するためには立坑方式により運搬能力の飛躍的増強をはかり、合理化を更に進展する必要を生じた。各レフィアーは盲斜坑により展開し、更に施工中の斜坑ベルトの完成と相まって、従来の年産100万トン、能率30トンを200万トン、最低60トン以上への飛躍をはかった。当立坑は昭和34年9月着工以来、20億円余の起業費を投入、社内経営、技術陣の総力を傾注し、関係者の一致協力により僅か3年5か月でここに完成した。
北海道産業を先導した赤平炭鉱。
そして、いま、水と緑豊かなふれあい産業都市をめざして。
《赤平・炭鉱の歴史》
- 歌志内村時代 明治28年三重団体赤平平岸地区に入植
- 明治28年 国木田独歩が空知川へ 空知川、沿岸原野へ入植者増加
- 明治34年 滝川炭山後赤間炭鉱開発抗翌年閉山
- 明治44年 上富良野線工事着工(後の根室本線)
- 大正2年10月 鉄道開業・表舞台へ
- 大正7年 大倉鉱業株式会社の手により赤平で最初の炭鉱として茂尻炭鉱が開抗
- 大正11年11月4月1日 赤平村誕生、人口7,208人
- 大正12年 大谷炭鉱開抗
- 大正13年 新赤平炭鉱開抗(豊里宮下地区)
- 大正14年 国勢調査 人口6,759人
- 大正15年 茂尻駅開業
- 昭和12年 日中戦争始まる
- 昭和12年 赤間炭鉱・豊里炭鉱開抗
- 昭和13年8月 住友鉱業株式会社炭業所(本社)臨時起業部となる
- 昭和14年2月 東斜抗開抗(後の一抗)
- 昭和16年 二抗開抗
- 昭和19年 三抗開抗
- 昭和28年 上歌志内炭鉱を合併
- 昭和38年 第一立抗完成
- 昭和45年 550L以深の開発始まる
- 昭和46年 中央排気立抗完成
- 平成6年2月25日 閉山 55年間の操業終了